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神奈川武闘の歴史
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ご注意
このあらすじはフィクションです。実在の諸施策とは一切関係ありません。

武闘の歴史をひもとくと、横浜や神戸など、全国からの参加者で組織されたプロジェクトチームを組み、海外からの協力を得て、世界各地の格闘技を視察して、総合的な研究の成果により、世界標準というコンセプトのもと、ごく自然ななりゆきに創設されたのが始まりである。
戦後での創生期は、全国から選手が賛同して、次第に新鮮なスタイルを確立した。これにつれて、徐々に全国大会が創設された。
昭和40年代は県内の登録者が急増するいっぽうで、プロ契約制度も導入された。
昭和50年代の県立高校100校新設計画の進展は、神奈川武闘のレベルアップに大きく寄与した。並行して高校武闘の振興が進み、競技人口も急増した。やがて、その熱意は県リーグや学生武闘にも波及し、多彩な進展をしはじめる。
昭和60年代もさらに競技人口の急増が進むいっぽうで、本格的にデスマッチや格闘技路線も普及し始めた。また、クラッシュギャルズやおニャン子クラブなどの魅力を取り入れることにより、武闘も本格的にエンターテイメント時代を迎えた。小・中・高生の憧れとして広く定着した。
一方、本県をはじめ、東京、千葉、埼玉と、首都圏で乱立状態の女子高武闘スタイルを整合するために昭和62(1987)年に「若葉塾」を発足し、以来各都県から有望な候補を発掘し、プロ、大学などに送り出してきた。
さらに平成にはいり、第2次ベビーブーム世代が高校生となり、さらにプロデビューや進学するにいたり、多彩にムーブメントを展開してきている。そのムーブメント世代が高校を巣立った平成5(1993)年、市川亜樹子が選抜、関武大会(高校選手権)と春夏連覇し、神無月賞も制して前人未到の女子高校3冠の偉業を達成した。この時期と前後して、高校生女子をはじめ、男子にも及び、だいたい3,4人前後で、また多くては7,8人で、グループ、ユニットを結成して、タッグマッチ、6人タッグマッチなどで活躍し、さらにグループ・ソロ(シングル)として、ソロ選手も含め写真集などを発行した。だいたいのグループが高校時代に結成し、また、結成以来10年近くを経過するグループも多い。高校武闘は、次第にアマチュア性を否定し、商業主義が濃くなった。
 平成8(1996)年、移行措置を経ての3ノックダウン制の本格導入で、格闘技色を一層強めた。一方、女子高生ブームの中で、当時の現役世代なども、流行に負けじと頑張った。この世代のほとんどが、市川亜樹子世代に憧れてやりだした精鋭たちで、従来のスタイルに加えて、格闘技スタイルも取り入れるなど、次第に色々なタイプの選手が現れてきている。なお、現在の大宮沙緒理、金村千草をはじめ、現役世代もこれに続いている。
 しかし、女子高武闘情勢の変化により、昨年、「M−power」が発足し、やはり本県など4都県の選手が参加。さらにULE高等部、千年紀塾の発足も相次ぐなど、今度は団体対抗戦が激化。また、「千年紀軍」を皮切りに、「1−21軍」も発足し、既に徒党間の争いにも火が点いた。ともに女子武闘は戦国時代を迎えた。グループ活動関係では、新構想ユニットが打ち出され、都県を越えたグループ結成が弾力的に認められ、並びに、本構想の一環として、普段とはまた違う人間関係で、自分を探すのに好都合な機会として、今いるグループ同士を越えて、新たなグループを結成し、別の立場で活動することも認められるなど、グループ・ユニットは多彩に展開してきている。

なお2000年には、辰巳智恵子、大宮沙緒理、野崎優子らが、インターネットプロレス・SARU及びGIPWにも、一時的ではあるが進出し、流派を越えたムーブメントの拡大に貢献した。

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